独島義勇守備隊をめぐる論議 韓国の竹島不法占拠を考える(2016.02.16改定)


日本安全保障戦略研究所研究員 藤井賢二
(プロフィール)

「独島大捷(しょう)」の虚飾


 韓国の国家報勲処は,2014年11月21日,国立大田顕忠院で「独島大捷(勝利)」60 周年記念式を行った。
「独島大捷」とは,1954年11月21日に竹島で海上保安庁巡視船が砲撃された事件である。日本の巡視船への銃撃は,その前年の7月とこの年の8月にも起きていたが, この砲撃事件で韓国の竹島不法占拠は決定的になった。

 韓国のメディアは次のように「独島大捷」を描写している。
「明け方,日本の海上保安庁の艦艇 3 隻が独島(日本名・竹島)に接近した。 (略)左右と中央から島を包囲した。日本の航空機も旋回した。600メートル前。拳銃の音とともに一斉射撃が始まった。M‐1小銃が火を吹いた。 迫撃砲弾は PS‐9 艦の甲板に当たった。PS‐10 艦も暗雲のような煙を吐き東に逃げた。(略)53〜54 年に入り独島を侵した日本は痛手を負った。死傷者は16人」 (「常習的に侵犯する日本人を決死阻止した独島義勇守備隊」(2012年8月19日付『中央日報 日本語電子版』)。

 この記事はまったくの虚偽である。日本人の死傷者はおらず,航空機など出動していない。
竹島から約3海里の所にいた巡視船「へくら」と「おき」から約1海里離れた場所に砲弾5発が落下したのは事実であるが,当時日本政府は竹島問題をあくまでも平和的に解決する方針で,巡視船の武装も貧弱で応戦など思いもよらず,その実態は「独島大捷」などではない。  


独島義勇守備隊の虚偽


 「独島大捷」記念式と同時に行われたのが,その功労者とされる独島義勇守備隊元隊員 の国立墓地への埋葬式だった。洪淳七(ホン・スンチル)隊長の証言によれば, 「傷痍軍人 などで構成された 33名の守備隊員は,1953 年 4月 20日独島に上陸して1956年12月30 日に独島警備を警察に引き継いで解散するまで, 独島に接近する日本の巡視船を阻止するなど独島守護のため活動した」のだという(『独島辞典』(韓国海洋開発院 2011年))。

この証言もきわめて疑わしい。
 1953 年 6月 27日に島根県と海上保安庁が竹島合同調査 を実施した。その時竹島にいたのは,ワカメを採る6人の密入国韓国人であり, 彼らは二日前に隠岐高校練習船鵬丸から米6升を与えられて喜んでいた。島根県の報告書に残る彼らの名簿に独島義勇守備隊員の名前はない (「[島根県]水産商工部 澤富造・井川信夫の出張復命書 昭 28.6.28付」)。
 1953年12月に竹島上空を飛んだ産経新聞社機に乗った記者は,同年10月に日本側が 設置した「島根県穏地郡五箇村竹島」の 領土標柱が韓国に抜かれずにあるのを目撃している(1954 年 1月 1日付同紙)。
 1954年3月の島根県水産試験場試験船島根丸の5回目の竹島調査の時、島は無人で韓国人も韓国船も見えなかった(1954 年 3月25日付『毎日新聞』)。 
 1954年5月の鳥取県水産試験場試験船鳥取丸の竹島調査の時,日本人が見たのは 50人ほどの韓国人が不法漁撈する姿だった。日本人に対して彼らは, 「日本に連れて行ってくれ」と哀願し,5日ごとに来る韓国の警備船がいる時には危ないから来るなと忠告した(同年6月3日付『日本海新聞』)。 
 2006年10月30日付「オーマイニュース」(韓国のインターネット新聞)は,1954年に鬱陵島在郷軍人会に対して「当時鬱陵警察署長だった具某氏が鬱陵郡守, 漁業協同組合理事と協議して鬱陵島最大の利権事業である独島ワカメ採取権を三年間任せた」。当時在郷軍人会の狼藉が尋常ではなかったため利権事業を与えてでも傷痍軍人 をなだめなければならなかったからだという元鬱陵警察警官の回想を掲載している。彼の回想によれば,洪淳七が初めて竹島に渡ったのはこの1954年春で, ワカメ採取のためだったという。


 

独島義勇守備隊をめぐる論議


 韓国政府は,1966 年に独島義勇守備隊の元隊員を叙勲し,2005年には独島義勇守備隊支援法を制定した。 これに対して,独島義勇守備隊は 3年8ヶ月も駐留していない,33人の中にはニセ隊員がいる,日本の巡視船を攻撃したのは独島義勇守備隊ではないなど, 顕彰事業を非難する声があった。
 この非難に対応して2006 年に監査が実施されたが,結局独島義勇守備隊記念館設立など顕彰事業は中止されなかった。
 金明基(キム・ミョンギ)『独島義勇守備隊と国際法』(タムル 1998 年)では,独島義勇守備隊の活動は韓国の実効支配を証明するものだと評価され,国家報勲処OB のイ・ヨンウォンが書いた 『独島義勇守備隊−独島を守った英雄33名の活動相』(ポムウ 2015 年)は,洪淳七の証言を全面的に採用している。
 この本では,1953年7月に巡視船「へくら」の船内で第8管区海上保安本部境海上保安部長と「洋上談判」する鬱陵警察の警察官の写真を見せて, 横顔が似ているからこの警察官物は洪淳七だと洪淳七の夫人に証言させているのである。

 韓国は,独島義勇守備隊を称賛することで,日本からの独立戦争をせずに建国した過去 の埋め合わせをしているようである。
 漫画『独島は我が地 独島を守った偉大な英雄たち』(ハクサン文化社 2005年)では,「第6章 独島大捷」で独島義勇守備隊と交戦する 巡視船の乗組員に旧日本軍を思わせる服装を着用させている。

 独島義勇守備隊の33人という数字も1919年の朝鮮三一独立運動の民族代表33人にちなんで数合わせをしたのであろう。
 そもそも,外国公船への攻撃は戦争にもなりかねない危険で重大な行為である。韓国人に この規範がまったく欠落していた(いる)のも, 日本からの独立戦争の代償行為として「独島大捷」があるからであろう。

 

竹島不法占拠への疑問


 収まらない顕彰事業反対派は非難の声を上げ続け,そのリーダーの金點劬(キム・チョ ムグ)独島守護隊代表は「竹島の日」に松江に来て日本人と小競り合いを起こし, 存在を印象づけたこともある。彼は「独島義勇守備隊の歴史歪曲」は,韓国政府が「独島を放任した」と日本につけ込まれる口実になると警告している (2015年8月3 日付「メデイア トゥデイ」)。
 彼の言い分は興味深い。この騒ぎで浮かび上がるのは,1954 年夏頃までの韓国政府の竹島支配は必ずしも確固としたものではなかった事実である。 竹島占拠はわずかの差で韓国が成功したもので,しかも,ひょっとすると日本にも実効支配維持の可能性を認めうるかもしれない, という微妙さを孕んでのことなのではないか,ということである。
 その可能性は,日本が竹島を島根県に編入した1905年以前に朝鮮半島にあった政府が竹島を領有していた可能性よりもはるかに高いと思われる。

     (本稿は,2016 年 1月 24 日付『山陰中央新報』の「談論風発」欄に掲載した同題の拙稿に加筆したものである。)