『新撰地誌』,『明治地誌』を編纂した岡村増太郎は,嘉永3(1850)年2月東京生まれで,明治8(1875)年東京師範学校(現在筑波大学の前身)の小学師範学科を卒業した。
何年かの地方勤務の後,東京に戻って,明治18(1885)年4月創刊で,開発社発行の教育雑誌「教育時論」の持主兼編集人となったが,発刊5か月後の同年9月には,東京府師範学校(現在の東京学芸大学の前身)の教諭心得に任命され,
持主兼編集人の席を譲った。
東京府師範学校には10年間も勤続して,附属小学校の主監(現在の校長)や幹事という要職についた。東京府師範学校の同窓会「七杉会」は,彼の命名で設立され,
会長に推されたことから,卒業生や在校生に信望が厚かったとみられる。
さらに,この間,全国的な規模で組織された教育団体「大日本教育会」や「東京府教育会」の役員をしたほか,『高等小学修身書』,『高等小学読本』,『高等小学筆算教科書』,『高等小学新歴史』,『小学地誌』,
『帝国習画帖』,『家庭唱歌』等あらゆる科目の教科書を20数以上も書いた。
明治30(1897)年頃には,大阪市東区の高等小学校長に転出した。当時,東西南北の4区に高等小学校は各1校しかなく,岡村の月給は他の3人の学校長より10円も高い,45円で,懇望されて赴任したとみられる。
明治39(1906)年には堂島小学校長に移り,明治45(1912)年には,文部省から教育功労者として選奨された。
このように,岡村は,地理学や日本地誌,世界地誌に通じた地理学者ではなく,様々な教科書を執筆していた教育者であったことが分かる。『新撰地誌』(全4巻)は,高等小学校用の地理教科書である。
明治19(1886)5月3日版権免許・出版で,巻1・2(日本地誌)は明治20(1887)年1月21日に訂正再板届,巻3・4(万国地誌)は同年5月30日訂正再板届としている。また巻1,巻2は同年1月31日,
巻3,4は同年6月17日「文部省検定済小学校教科用書」となっている。
次に,ハン・チョルホ教授が取り上げた地図について検討する。
図1 『新撰地誌』巻1 所収「日本総図」
(島根大学附属図書館所蔵-図をクリックすると拡大されます)
図2 『新撰地誌』巻1 所収「日本総図」(拡大)
(島根大学附属図書館所蔵-図をクリックすると拡大されます)
まず,「日本総図」は『新撰地誌』巻1の「第二篇日本誌」の前に収録された地図で,五畿七道及び,
北海道,琉球を加えた地図である【図1】。
日本列島の北側の海は「東海」ではなく,「日本海」と記されている。日本海の周囲のわが国,朝鮮,満州の沿岸には,線が引かれているが,斜線ではなく,横に直線が引かれている。
隠岐諸島と朝鮮半島の間には,島が2島描かれている【図2】。
北西の島から南に向かうと,九州の佐賀県唐津市付近で,東経130度付近であることから,これは鬱陵島を誤って測量した,
西洋名アルゴノート島=竹島である。
南西の島から南に向かうと,福岡県北九州市付近で,東経130度52分付近であることから,これは西洋名ダジュレー島=鬱陵島=松島である。
現在の竹島にあたる,西洋名リアンコールト岩は,東経131度52分に位置し,その位置から南に向かうと,島根県益田市付近となる【図2】。
つまり,北西の島は,西洋名アルゴノート島,南西の島はダジュレー島=鬱陵島であることが確認でき,この地図は島名の混乱が反映されていることが分かる。
現在の竹島にあたる西洋名リアンコールト岩は,この地図では記されてないのである。
したがって,「新撰地誌のなかで,鬱陵島と独島が朝鮮の海域に含まれたとみられる」,
「朝鮮東海岸に名前が書かれていない二つの島があるが,斜線をみると朝鮮の領域であることが分かる」とした解釈はいずれも間違いであるといえる。
北西の島も南東の島もいずれも現在の鬱陵島を指していることから,両島が朝鮮の領域として記されているのは至極当然のことである。
続いて,巻3のアジア地図である。巻3・4は「万国誌」で,アジア地図は,「第一章総論」の後,「第二章亜細亜洲」の前に収録されている。
地図には単に「亜細亜」と記している【図3】。
日本列島の北側の海は「東海」ではなく,「日本海」と記し,朝鮮半島と中国との間の海は
「黄海」,東シナ海を「東海」と記している【図4】。
図 3 『新撰地誌』巻3 所収「亜細亜」
(島根大学附属図書館所蔵-図をクリックすると拡大されます)
図 4 『新撰地誌』巻3 所収「亜細亜」(拡大)
(島根大学附属図書館所蔵-図をクリックすると拡大されます)
ハン教授は,「アジア地図には,日本の国境が赤い色で引かれている。
地図には南側の沖縄と対馬から北側の北海道と今日クリル列島と呼ばれる千島列島まで全部日本領土と表示されている。
しかし鬱陵島と独島海域は確実に日本領土から除外されている。独島は表示されておらず,独島の方向に国境線が引かれてもいない」
と解釈している。
まず,この国境線が正しいとして,地図を読むと【図4】,鬱陵島も現在の竹島もこの地図には記されていないものの,
東経130度52分付近の鬱陵島は,国境線の西にあり,東経131度52分付近にある現在の竹島は,この国境線の東側に位置しているので,
この地図では,鬱陵島は朝鮮領,現在の竹島は日本領ということになる。
上述したように,ハン教授は,島の位置,島名の混乱を考慮せず,両島の島名を誤って解釈しているので,巻3のアジア地図も誤読しているのである。
次に,国境線の記載について検討する。この地図の国境線の記載は杜撰である。例えば,わが国の北東とソ連との国境線は,カムチャツカ半島と
千島列島の占守島の間であったが,この地図では,占守島の南西の島,幌筵島と占守島との間に国境線が引かれている【図4】。
この時期,占守島がソ連領であったという歴史的事実はない。また,朝鮮の北東とソ連との国境線は,地形を照らし合わせると,
ソ連のウラジオストク付近に国境線が引かれている【図4】。この時期に,ウラジオストクが朝鮮領であったという歴史的事実はない。
さらに巻4の「第七章阿西亜尼亜洲」の前にある「阿西亜尼亜」(=オセアニア)の地図をみると【図5】,わが国と「ポリ子シヤ」(=ポリネシア),
「マレイシヤ諸嶋」(=マレーシア諸島)との国境線が引かれているが,当時日本領であった,わが国の伊豆諸島の一部,「小笠原島」,
そして,明治18(1885)年にわが国に編入された南大東島と北大東島がポリネシア領と記されている【図6】。
図 5 『新撰地誌』巻3 所収「阿西亜尼亜」
(島根大学附属図書館所蔵-図をクリックすると拡大されます)
図 6 『新撰地誌』巻3 所収「阿西亜尼亜」(拡大)
(島根大学附属図書館所蔵-図をクリックすると拡大されます)
すなわち,この本は,検定教科書であるものの,地図における国境線の記載は,歴史的事実に即しておらず,極めて杜撰であるといえる。つまり,この教科書の地図は内容が多く間違っているので,
現在の竹島が朝鮮領とする証拠とすることはできない。
したがって,ハン教授の主張「独島を日本領土として認識したとすれば,島を描いて国境線をもっと上げて引いただろう」
というのは地図の内容を踏まえない,単なる憶測に過ぎないといえる。
また,「日本総図が,独島が朝鮮領という事実を語る間接証拠であれば,
今回発見された新撰地誌巻3のアジア地図は日本が独島領有権に対する考えがなかったという点を立証する直接的な論拠になることができる」
とあるのは,「日本総図」に描かれた島を誤読している以上,間接的な証拠にもならないこと,アジア地図やオセアニア地図に記された国境線に
は,歴史的事実を踏まえない間違いが多数みられる以上,アジア地図が直接的な証拠となるはずがない。
さらに,
「国境線は普通すべての地理情報を総合して描くという点で,当時は日本が独島を認識しなかったという点がさらに明白になった」
という主張も,この地図における国境線がすべての地理情報を総合して描くということが何一つ実証されていない。
アジア地図において千島列島の占守島をソ連領としたり,オセアニア地図において,伊豆諸島の一部,「小笠原島」,南北大東島をわが国
の領土から外していることからも,この地図の国境線はすべての地理情報を総合して描くということはしていない。
要するに,「国境線は普通すべての地理情報を総合して描く」という主張は,現代の地図を前提とした,極めて粗雑な議論である。
また「当時は日本が独島を認識しなかった」という主張も,現在の竹島は,わが国の政府が作製した海図等において,「リアンコールト岩」等と記されていることから,
わが国が竹島を認識しなかったという主張も明確に間違いである。
この主張も,わが国の地図史を踏まえない,極めて粗雑な議論であるといえる。
さらに,『新撰地誌』の他の地図について,ハン教授は「このような主張は,新撰地誌巻2に載せられた「日本全図」,
島根県と鳥取県を指称する山陰地域の地図を通じても裏付けられる。
特に日本全図には,挿入図の形態で附属島嶼がもれなく入っているが,隠岐諸島はあるが独島はどこにもない」と主張している。
しかしながら,地図の分析を行う際には,地図全体の記載を検討しなければ,本質を理解することができない。
「日本全図」は,巻2の「第十章西海道」の後,「第十一章総論」の間に収録され,国ごとの境界が記されている【図7】。
「日本全図」のうち離島の記載に注目すると,まず,「琉球諸島」のうち,「八重山諸島」(=先島諸島)の記載が間違っていることが確認できる【図8】。
図 7 『新撰地誌』巻2 所収「日本全図」
(島根大学附属図書館所蔵-図をクリックすると拡大されます)
図 8 『新撰地誌』巻2 所収「日本全図」(拡大)
(島根大学附属図書館所蔵-図をクリックすると拡大されます)
最西端の与那国島には島名の記載がなく,
西表島を「與那国島」と記し,石垣島を「入表島」(=西表島)と記し,宮古島を「石垣島」と記しており,宮古島の名称が欠けており,
完全に島名がずれている。地図において,地名の記載の間違いは致命的な欠陥であるといえる。
また,国境の島でも記されていない島がある。
明治18(1885)年わが国に編入された,沖縄県の南大東島と北大東島が記されていない。西表島(この地図では「與那国島」と記す)
の南に位置する,国境の島で有人島である,沖縄県の波照間島も記されていない【図8】。
2017年世界遺産に登録された,玄界灘に浮かぶ,福岡県宗像市の沖ノ島も記されていない。長崎県の五島列島の先の東シナ海に浮かぶ,長崎県五島市の男女群島と肥前鳥島も記されていない。
青森県と秋田県の漁民が利用していた,日本海に浮かぶ久六島も記されていない。伊豆諸島のうち,有人島である青ヶ島と鳥島も記されていない
【図7】。
すなわち,「日本全図」には,国境の島がすべて記されているわけではなく,「八重山諸島」に至っては,
島の記載が間違っていることから,この地図に現在の竹島の記載がないことをもって,日本領でないとすることはできない。
次に,地方図についてである。ハン教授は「新撰地誌の島根県と鳥取県がある山陰地域の地図。上側に隠岐諸島が表示されているが,
独島はない」としている。該当する地図は,巻2の「第七章山陰道」に収録され,地図には「山陰山陽及南海道之図」と記されている【図9】。
ハン教授の主張のように,隠岐諸島の北西には,現在の竹島は記されていない。また,日本海に浮かぶ国境の島で有人島の山口県萩市の見島
が記されている一方で,かつて有人島であった,島根県益田市の高島は記されていない【図10】。
図 9 『新撰地誌』巻2 所収「山陰山陽及南海道之図」
(島根大学附属図書館所蔵-図をクリックすると拡大されます)
図 10 『新撰地誌』巻2 所収「山陰山陽及南海道之図」(拡大)
(島根大学附属図書館所蔵-図をクリックすると拡大されます)
さらに,この地図における地方図の性格を検討するため,他の地方図も検討する。
先ほどの巻2「日本全図」と同様に,
地方図でも国境の島全てが記されているわけではない。
巻1の「畿内及東海道之図」【図11】は,「第二章畿内」のなかに収録されている。
「畿内及東海道之図」では,「小笠原島」の記載はあるものの,伊豆諸島のうち,有人島である青ヶ島と鳥島が記されていない。
巻2の「東山道及北陸道之図」【図12】では,青森県と秋田県の漁民が利用していた,日本海の久六島が記されていない。
図 11 『新撰地誌』巻1 所収「畿内及東海道之図」
(島根大学附属図書館所蔵-図をクリックすると拡大されます)
図 12 『新撰地誌』巻2 所収「東山道及北陸道之図」
(島根大学附属図書館所蔵-図をクリックすると拡大されます)
巻2の「第十章西海道」のなかに収録されている「西海道及琉球諸島之図」【図13】では,玄界灘に浮かぶ,福岡県の沖ノ島,東シナ海に
浮かぶ,長崎県の男女群島と肥前鳥島,明治18(1885)年にわが国に編入された沖縄県の南大東島と北大東島が記されていない。なお,巻2「日本全図」で誤記がみられた
八重山諸島は,「西海道及琉球諸島之図」では,正しく記されている。
図 13 『新撰地誌』巻2 所収「西海道及琉球諸島之図」
(島根大学附属図書館所蔵-図をクリックすると拡大されます)
以上のように,「日本全図」と同様に,地方図においても,国境の島を全て記していない。そうである以上,この地図に現在の竹島の記載がないことをもって,日本領でないと判断することは
できないのである。
続いて,報道で取り上げられた『明治地誌』の地図を検討する。
『明治地誌』(全4巻)のうち,巻1・2は明治25(1892)年8月出版,
巻3・4は同年9月の出版で,高等小学校地理科の教科書として出版された。翌年の明治26(1893)年8月29日「文部省検定済小学校教科用書」
となっている。明治29(1896)年訂正再版まで出版されている。
ハン教授は,「岡村増太郎が1892年に出した「明治地誌」でも独島に対するこのような認識を確認することができる。明治地誌の巻1には,日本各地の地理情報を詳細に描いた「府県明細図」があるが,
島根県には隠岐諸島だけ管轄地域として描かれているだけだ。島根県に属した島のうちに独島はない」としている。
『明治地誌』には日本地図として,巻1に「日本全形図」(第13図),「日本総図 東北之部」と「日本総図 西南之部」(第14図),
「府県明細図」(第15図),「畿内及東海道之図」(第20図),巻2に「東山道及北陸道之図」(第1図),「北海道之図」(第6図),
「山陰山陽及南海道之図」(第9図),「西海道及琉球諸嶋之図」(第16図)が収録されている。
地図の性格を分析するには,該当する地図だけでなく,地図全体を検討する必要があることは言うまでもない。
まず,「日本全形図」は,明治19(1886)年発行の『新撰地誌』の「日本総図」にあたる地図で,五畿七道及び,北海道,琉球を加えた
地図である【図14】。
図 14 『明治地誌』巻1 所収「日本全形図」
(島根大学附属図書館所蔵-図をクリックすると拡大されます)
日本列島の北側の海は「東海」ではなく,「日本海」と記している。日本海を含めて,陸地周囲の横向きの直線は
なくなっていることから,絵画的要素が消えたと言える。
また新たに,地図には経緯線が引かれ,地図の端には,経度が記されている。
現在の竹島は記されていないが,この地図ではわが国の地方区画を示しただけで,国境線は示されていないので,この地図をもって,
現在の竹島がわが国の領土でないとは判断できない。
「日本総図」は,『新撰地誌』にはなかった地図で,国ごとに境界線が引かれている。「日本全形図」と同様に,経緯線が引かれ,
経緯度が記されている。
主要な山,河川,島,岬,地名は記されているが,道路や鉄道路線などは記されておらず,自然的要素を重視した
地図であるといえる。
「東北之部」には,東は北海道の「千嶋群島」から,西は若狭国・近江国・伊勢国までが出ている【図15】。
この地図には「小笠原島」や明治24(1891)年わが国に編入された火山列島(北硫黄島・硫黄島・南硫黄島)が記されていない。
「西南之部」には,東は,丹後国・丹波国・山城国・大和国・紀伊国から,西は「琉球諸島」まで出ている【図16】。
図15『明治地誌』巻1 所収「日本総図 東北之部」
(島根大学附属図書館所蔵-図をクリックすると拡大されます)
図 16 『明治地誌』巻1 所収「日本総図 西南之部」
(島根大学附属図書館所蔵-図をクリックすると拡大されます)
『新撰地誌』と同様に,現在の竹島のほか,福岡県の沖ノ島,長崎県の男女群島と肥前鳥島,明治18(1885)年わが国に編入された沖縄県の
南大東島と北大東島も記されていない。
したがって,他の国境の島がこの地図に記されていない以上,現在の竹島がわが国の領土でないとはいえない。
報道で取り上げられた「府県明細図」は,府県ごとに境界線が引かれた地図である【図17】。
図 17 『明治地誌』巻1 所収「府県明細図」
(島根大学附属図書館所蔵-図をクリックすると拡大されます)
この地図にも経緯線が引かれ,経緯度が記されている。主要な河川,岬,島,地名のほか,国ごとの境界,鉄道路線,航路が記されている。
「日本総図」と比較すると,人文的要素を重視した地図であるといえる。報道にもあるように,現在の竹島は島根県の範囲に入っていない。
しかしながら,『新撰地誌』と同様に,国境の島でも記されていない島,府県の範囲に入っていない島がある。
北海道の松前半島の西に位置し,日本海に浮かぶ大島(=渡島大島),小島(=渡島小島)が記されていない。
日本海に浮かび,青森県と秋田県の漁民が利用した久六島,も記されていない。
伊豆諸島のうち,この地図では,八丈島の南に位置する青ヶ島が東京府とされているが,当時アホウドリの捕獲といった経済活動が行われていた
有人島の鳥島は記されていない。
明治24(1891)年わが国に編入された火山列島(北硫黄島・硫黄島・南硫黄島)が記されていない。
明治18(1885)年わが国に編入された,沖縄県の南大東島と北大東島も記されていない。
さらに,玄界灘に浮かぶ,福岡県の沖ノ島も記されていない。
東シナ海に浮かぶ,長崎県の男女群島と肥前鳥島も記されていない。
このように,「府県明細図」でも,国境の島がすべて記されておらず,府県の領域に入っているわけではないので,
この地図に現在の竹島の記載がないことをもって,日本領でないとすることはできない。
報道では言及されていないが,地方別の地図も検討を行うこととする。
地方図の範囲は,いずれも『新撰地誌』と同じであるが,『明治地誌』では新たに経緯線が引かれ,経緯度が記されている。
まず「畿内及東海道之図」では,「小笠原島」は記されているものの,伊豆諸島のうち,
有人島である青ヶ島と鳥島がまた記されていない。明治24(1891)年わが国に編入された火山列島(北硫黄島・硫黄島・南硫黄島)も記されて
いない。
「東山道及北陸道之図」では,日本海に浮かぶ久六島が記されていない。
「北海道之図」では北海道の松前半島の西に位置する大島(=渡島大島),小島(=渡島小島)が記されていない。
「山陰山陽及南海道之図」では島根県益田市の高島が記されていない。
「西海道及琉球諸島之図」では,先に述べた,玄界灘に浮かぶ,福岡県の沖ノ島,東シナ海に浮かぶ長崎県の男女群島と肥前鳥島,
明治18(1885)年わが国に編入された,沖縄県の南大東島と北大東島がいずれも記されていない。
このように『明治地誌』所収の地図には,いずれの地図にも現在の竹島が記されていないものの,『新撰地誌』所収の地図と同様に,
他の国境の島も記されていないことから,現在の竹島が地図に記載されていないことをもって,現在の竹島は日本領でないと判断することは
できない。
さらに,ハン教授は「「明治地誌」のアジア地図にも独島は表示されていない」と指摘している。この地図は,『明治地誌』巻3の
「第六篇 各国誌」,「第一章亜細亜諸邦」の前に収録された「亜細亜大洲ノ地図」で,地図には単に「亜細亜」と記している【図18】。
図 18 『明治地誌』巻3 所収「亜細亜」
(島根大学附属図書館所蔵-図をクリックすると拡大されます)
『新撰地誌』のアジア地図では,わが国の周辺に国境線は記されていない。報道にあるように,この地図では「韓国と日本の間に
国境線はないが,独島もない」とあるので,この地図だけでは,現在の竹島が朝鮮領であると読むことはできないが,上記の「府県明細図」
において,現在の竹島が島根県に入っていないので,そのことを踏まえ,朝鮮領と解釈していると考えられる。
しかしながら,上述したように,「府県明細図」をはじめ,『明治地誌』所収地図には,他の国境の島が記載されていないことが多く,
そのことをもって,日本領でないとはいえない。
さらに,このアジア地図は小縮尺地図であるので,対馬ですら文字だけで,島の形すら出ていない【図19】。
図 19 『明治地誌』巻3 所収「亜細亜」(拡大)
(島根大学附属図書館所蔵-図をクリックすると拡大されます)
隠岐諸島は1島しか出ていない。さらに,これまで述べてきた,日本海の見島や沖ノ島のほか長崎県の壱岐,東シナ海の男女群島と肥前鳥島など
国境の島が記されていない。
したがって,このアジア地図をもって,そもそも国境の島の領有権を議論することはできないといえる。
最後にハン教授は,岡村の新撰地誌に対して,
「巻1は認可制教科書であったが,巻2〜4は日本の文部省が検証した教科書という点が
重要である。岡村の地理教科書は検定を受けたため,個人的見解でなく,日本政府の立場といえる。日本が独島領有権を主張する時,
掲げる固有領土論と主人がなく占有したという無主地先占論を批判できる重要な史料」
と解釈しているが,これも検証が必要である。
まず上述したように,『新撰地誌』(全4巻)は,明治20(1887)年1月21日の訂正再板(巻1・2),同年5月30日の訂正再板(巻3・4)
によると,いずれも「文部省検定済小学校教科用書」であり,巻1・2は明治20(1887)年1月31日,巻3・4は同年6月17日検定済教科書
となっている。
文部省による教科書の検定制度は,明治19(1886)年5月10日の「教科用図書検定条例」により始まるが,翌年5月7日には
「教科用図書検定条例」が廃止され,新たに「教科用図書検定規則」が制定され,その後この規則に基づいて検定制度が運営された。
しかしながら,明治21(1888)年春には東京で,文部省・東京府庁・民間書肆の間で,三つ巴の教科書抗争が生じていた。
当時の新聞には,「文部省では,民間の書を完全ではないと言い,東京府等では,文部省の書もまた感服しないと言われるだろう」とある。
つまり,当時検定制度はまだ確立していなかったことが読み取れる。これは,著者の岡村増太郎が地理学や日本地誌,世界地誌に通じた地理学者ではなく,
様々な教科書を執筆していた教育者であること,そして教科書所収の地図に誤記が多くみられることと関係しているといえる。
さらに,当時日本政府では,伊能図や各府県作製の府県地図などをもとに,内務省地理局や陸軍参謀本部,後に陸地測量部が地図を,
海軍水路部が海図を作製しており,教科書所収の地図より,はるかに精度の高い地図を作製していた。
現在の竹島は西洋名「リアンコールト岩」として海図に記されて,日本政府によって認識されていた。
したがって,「岡村の地理教科書は検定を受けたため,個人的見解でなく,日本政府の立場といえる」という主張は,わが国における
教科書制度の歴史や地図の歴史を踏まえれば,岡村増太郎の地理教科書が日本政府の立場を示すとはとても主張することができないといえる。
国際紛争において,地図は二次的な証拠としての価値しかないものの,あえて証拠価値があるとすれば,政府が直接測量・編集に関与した地図と,
政府が編集に関与せず,検定したのみの地図と,どちらが日本政府の見解を示すかは一目瞭然である。検定制度が始まったばかりで,検定制度が確立していなかった
段階の教科書所収の地図が,国際紛争において証拠価値がある可能性は極めて低い。
今後,わが国で発行された,明治中・後期における検定教科書のうち地理教科書所収の地図を「新発見」として発表したとしても,
どれも内容は五十歩百歩であり,『新撰地誌』と『明治地誌』と同様に,国際法上,竹島問題において領有権の根拠となる可能性はほとんどない。
わが国の主張である固有領土論や無主地先占論は,
@江戸時代に幕府の許可を受けて,わが国の山陰地方の漁民が現在の竹島でアシカ猟を行ったこと,
Aその後現在の竹島では,朝鮮王朝も含めて,わが国以外の外国がその政府の許可を受けて経済活動などを行っていないこと,
B近代国際法に基づいて明治38(1905)年閣議決定,島根県告示により,わが国が現在の竹島を編入する以前においても,朝鮮王朝や大韓帝国を含めて,わが国以外の外国がその政府の許可を受けて経済活動などを行っていないことを指している。
現在の竹島が記載される古地図は,国際法上,あくまで二次的な証拠価値しかない。
したがって,二次的な証拠価値しかないわが国の古地図を博捜,提示したところで国際法上,本質的な意味はほとんどない。
韓国側がなすべきことは,明治38(1905)年以前に,朝鮮王朝なり,大韓帝国が現在の竹島を法的に支配していた証拠を提示することである。
※本稿は速報コメントであるので,史料の出典,参考文献等は省略した。詳細については別稿で触れることとしたい。
【報道翻訳】 先頭ページに戻る
■「独島は日本領土」主張反論する130年前の日本検定教科書発見
送稿時間| 2017/08/07 07:00
ハン・チョルホ教授,1886年「新撰地誌」で国境線資料追加確認
1886年編纂された新撰地誌巻3にあるアジア地図。
(http://img.yonhapnews.co.kr/etc/inner/KR/2017/08/06/AKR20170806027000005_04_i.jpg)
独島は表示されておらず,独島の方向に国境線が引かれてもいない。 [ハン・チョルホ教授提供]
(ソウル=聯合ニュース)パク・サンヒョン記者=19世紀後半,日本が独島を自国領土と認識していないことを体系的に説明できる日本の検定教科書が発見された。
日本の検定教科書のなかで,韓国と日本の間の国境線が引かれている最も早い時期の地図があって,独島が朝鮮領であったという事実を明らかにする,意味のある資料として評価される。
ハン・チョルホ東国大歴史教育科教授は,東北アジア歴史財団独島研究所が3日開催した月例発表会で,岡村増太郎(おかむらますたろう,生没年未詳)が1886年に編纂した地理教科書,「新撰地誌」の独島関連内容を公開した。
岡村増太郎は,1875年東京師範大学校を卒業し,1885年出版社の普及舎が発行した「教育時論」の編集者をしばらく引き受けた。以後1910年代初期まで師範学校教員と小学校校長として活動した。
彼が作った新撰地誌のなかで,鬱陵島と独島が朝鮮の海域に含まれたとみられる「日本総図」は2012年に国内学界に紹介されたことがある。
ハン教授は,新撰地誌の日本総図に対して「朝鮮東海岸に名前が書かれていない二つの島があるが,斜線をみると朝鮮の領域であることが分かる」として,「島根県隠岐諸島は日本側に斜線処理がなされている」と述べた。
新撰地誌の「日本総図」。
(http://img.yonhapnews.co.kr/photo/yna/YH/2012/08/28/PYH2012082805180001300_P4.jpg)
鬱陵島と独島が表示されており,朝鮮海域として斜線表示がなされている。 [聯合ニュース資料写真]
ハン教授は,日本総図が,独島が朝鮮領という事実を語る間接証拠であれば,今回発見された新撰地誌巻3のアジア地図は日本が独島領有権に対する考えがなかったという点を立証する直接的な論拠になることができると強調した。
アジア地図には,日本の国境が赤い色で引かれている。 地図には南側の沖縄と対馬から北側の北海道と今日クリル列島と呼ばれる千島列島まで全部日本領土と表示されている。しかし鬱陵島と独島海域は確実に日本領土から除外されている。
国境線をこのように処理した地図は,地質学者である山上万次郎が1902年と1903年に編纂した教科書でも確認される。
ハン教授は,「新撰地誌のアジア地図に隠岐諸島はあるが,鬱陵島と独島は描かれることもなかった」とし,「独島を日本領土として認識したとすれば,島を描いて国境線をもっと上げて引いただろう」と主張した。
それとともに,「国境線は普通すべての地理情報を総合して描くという点で,当時は日本が独島を認識しなかったという点がさらに明白になった」と付け加えた。
新撰地誌の島根県と鳥取県がある山陰地域の地図。
(http://img.yonhapnews.co.kr/etc/inner/KR/2017/08/06/AKR20170806027000005_02_i.jpg)
上側に隠岐諸島が表示されているが,独島はない。 [ハン・チョルホ教授提供]
このような主張は,新撰地誌巻2に載せられた「日本全図」,島根県と鳥取県を指称する山陰地域の地図を通じても裏付けられる。特に日本全図には,挿入図の形態で附属島嶼がもれなく入っているが,隠岐諸島はあるが独島はどこにもない。
ハン教授は,岡村増太郎が1892年に出した「明治地誌」でも独島に対するこのような認識を確認することができると説明した。
明治地誌の巻1には,日本各地の地理情報を詳細に描いた「府県明細図」があるが,島根県には隠岐諸島だけ管轄地域として描かれているだけだ。島根県に属した島のうちに独島はない。また「明治地誌」のアジア地図にも独島は表示されていない。
明治地誌のアジア地図。
(http://img.yonhapnews.co.kr/etc/inner/KR/2017/08/06/AKR20170806027000005_03_i.jpg)
韓国と日本の間に国境線はないが,独島もない。 [ハン・チョルホ教授提供]
ハン教授は,岡村の新撰地誌に対して,「巻1は認可制教科書であったが,巻2〜4は日本の文部省が検証した教科書という点が重要である」と説明した。
引き続き,「岡村の地理教科書は検定を受けたため,個人的見解でなく,日本政府の立場といえる」とし,「日本が独島領有権を主張する時,掲げる固有領土論と主人がなく占有したという無主地先占論を批判できる重要な史料」と付け加えた。
psh59@yna.co.kr
2017/08/07 07:00送稿
http://www.yonhapnews.co.kr/bulletin/2017/08/06/0200000000AKR20170806027000005.HTML