憲法改正に関する提言
-国防なき憲法を改正し国軍を創設せよ!-

平成18年5月3日
(社)日本郷友連盟

提言書起案グループ; 倉田英世(Gp長)、樋口譲次(主筆)、鬼塚骼u、高井晋、冨田稔、矢野義昭

-目次構成-

T 提言の趣意 
U 提言 
V 補足説明

T 提言の趣意

 国家の究極の役割は、その「生存と安全の確保」にある。
 すなわち、国防こそが、国家が取り組むべき最重要の課題である。しかるにわが国は、戦後の軍事占領下において戦勝国による日本非武装化・弱体化の一環として受け入れを余儀なくされ、国防及びその中核をなす軍事に関わる事項が排除された 「国防なき憲法」ともいうべき現行憲法の下で、永年にわたり国の防衛を疎かにしてきた。

 東西二大陣営の対峙する冷戦下にあっては、米国との安全保障条約のもとで平和を享受することができた。
 しかしながら、冷戦が終結し、国家や民族が再び各々の国益や主体性等を主張する国際関係に回帰したといわれる今日、国際社会の主要国に成長したわが国には、その地位に相応しい役割が求められている。

 また、中国の覇権的拡張、当面する北朝鮮の脅威、あるいは域内各国間の領土問題等がいよいよ尖鋭化する二十一世紀のアジアにおいて、わが国が誇り高い国家として生き続け、子孫に引き継いでいくためには、 国力国情に応じた確かな国防体制を確立することが急務である。

 このためには、まず憲法の改正が必要であるが、これは単に憲法九条の改正に止まるものではない。
 民主国家日本の主権者である国民一人一人が国を愛し、名誉を重んじ「自らの国は自らの力で守る」強い意志と責任を共有していることが全ての基礎とならねばならない。

 その基礎の上に立って、国防に関する現行憲法の欠落事項、また、わが国が将来にわたって国際社会で応分の責任と役割を果たす上で不足し不十分である事項について、新たな憲法で明確に示さなければならない。

 この際、国防の骨格をなす実力組織は、「国民の国民による国民のための軍隊」を基本精神とし、「自衛(自己防衛)軍」(Self Defense Force)と称するような内向きで自己中心的なものでなく、わが国の防衛を第一義に、併せて同盟国に対する責任や国際社会における役割を果たせる「国軍」(National Armed Forces)あるいは「国防軍」(National Defense Force) として創設することが肝要である。

 以上の観点から、来るべき憲法改正に当たっては、国防にかかわる七項目を新憲法に明示することを強く提言する。

U 提言

【七つの提言】

1 愛国心並びに国防の重要性について憲法前文に明記する。

2 国民の「国防の義務」について規定する。

3 有事等の「国家非常事態」について規定する。
 この際、内閣総理大臣が同事態における国家指揮権限者(NCA: National Command Authority)であることを明示する。
 併せて国家非常事態における国民主権の一時的委任及び基本的人権の部分的制限等の有事体制について明示する。

4 国家防衛のための自衛権の行使について規定する。
 この際、集団的自衛権の行使を認めるものとする。

5  国軍の保持を明示し、その任務権限(交戦権を含む)について規定する。
 この際、内閣総理大臣が国軍の最高指揮官であることを明記する。また、国際協力活動を国軍の本来任務として位置付ける
 とともに、国軍の海外派遣においては、国際法規・慣例に基づく軍隊としての権限を付与するものとする。

6 軍法の制定並びに特別裁判所としての軍事裁判所の設置について規定する。

7 軍人の身分を確立し、その地位および権利義務について規定する。


 以上七項目は、いずれも憲法の前文または条文として示すものとする。
 しかしながら、止むを得ず条文化ができない場合には、法律で定めることを明示し、いやしくも、憲法の規定によって各項に示す内容の具現化が妨げられないよう予め十分に配意されたく要望する。


V 補足説明

-補足説明の目次-

V-T 【提言の趣意】の補足説明
V-U 【七つの提言】の補足説明
 提言1 愛国心並びに国防の重要性について
 提言2 国民の国防の義務について
 提言3 国家非常事態と指揮権限について
 提言4・提言5 憲法九条と自衛権の確立並びに国軍創設の必要性について
 提言6 軍法制度の保持並びに軍事裁判所の設置について
 提言7 軍人の身分と権利義務について

V-T 提言の趣意の補足説明

国家の究極の役割は、その「生存と安全の確保」にある。すなわち、国防こそが、国家が取り組むべき最重要の課題である。

 我が国は、先の大戦において「自存自衛の戦い」に敗れた。その結果、国家の生存が根底から脅かされ、主権は蹂躙され、国内の治安や秩序は混乱して、有史以来の未曾有の国難に直面する事態に陥った。

 この敗戦の苦く重い経験と三百万余の尊い同胞の犠牲の上に得られたものは、「国家は、まず何としても厳然と存在し、国内外において安寧を確保しなければならない。
 その国家基盤(土台)が揺らげば、国家の主権も、法秩序の維持も、国民の自由で旺盛な諸活動も、ましてや国民の福祉も全く成り立たない」、平たく言えば「国がなくなれば、何もかもお仕舞いだ」という深刻な教訓であった筈である。
 このことは、そのような歴史的事実に至った原因はともかくとして、パレスチナ問題、イラク戦争後の惨状等を見ても、極めて明らかである。

 我が国は、日本列島を中心とした領域に、同一の言語を話す単一の民族が、万世一系の天皇を中心とした国家として二千有余年の悠久の歴史を積み重ね、独自の伝統文化を育んできた。
 そして、先の大戦における破局的な国難を乗り越え、立憲君主の議会制民主主義国家として発展し続けている、世界に類を見ない国である。

 このように、先祖が幾多の内憂外患を乗り越え、営々と築いてくれたこの国を、未来へ向け、更に発展的に引き継いで行くことは、現代の日本人の使命である。

 すなわち、国家にとって、過去、現在そして未来の連続性の中で、その永続的な生存を図り、安全を確保することが、どの時代にも共通した、最も根本的な事柄である。
 いうなれば、国家存続のための国防こそが国家の最重要の課題であり、究極の役割なのである。

 しかるに我が国は、戦後の軍事占領下において戦勝国による日本非武装化・弱体化の一環として受け入れを余儀なくされ、国防及びその中核をなす軍事に関わる事項が排除された「国防なき憲法」ともいうべき現行憲法の下で、 永年にわたり国の防衛を疎かにしてきた。

 大東亜戦争の戦勝国である米国は、戦後の日本占領政策の究極の目的である日本の非武装化・弱体化政策の一環として、明治憲法を否定し、現行憲法を押しつけた。 (この行為は、一九〇七年のヘーグ陸戦条約第四三条「占領地の法律の尊重」に反するものである。)

 その前文では、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われわれの安全と生存を保持しようと決意」させられている。
 また、マッカーサー・ノートの第二項に基づいて起草された憲法九条「戦争の放棄、戦力及び交戦権の否認」によって、独立国が当然保有する主権としての自衛権までもが極限され、我が国の憲法は「国防なき憲法」と言うべき 致命的欠陥を持った憲法として制定運用されてきた。

 その後、平和条約が締結され占領が終了したが、憲法九条がもたらした国論の分裂、経済のみに集中し大事な国防を疎かにしてきた「吉田ドクトリン」以来の重い附け、更には政治及び歴代政権の怠慢などが重なり、 独立後に当然見直されるべき「押しつけ憲法」が、約六十年間一度も改定されない異常な状況が続いてきた。

 この間、憲法で戦力不保持を強要した米国が、朝鮮戦争勃発に伴い、極東における軍事バランスの一翼を担わせることを企図して日本の再軍備を進め、自衛隊を誕生させた。

 しかしながらその後、自衛権の認否を国家的争点として論争が繰り返され、自衛隊の合憲性については未だに国民の間に疑義が存在するとともに、自衛隊は軍隊でない武力集団という奇妙な存在として扱われてきた。
 このように、「国の大事」である国防は、憲法制定から今日に至るまで、その基本的問題が未解決のまま、依然として疎かにされ続けているのである。

 東西二大陣営の対峙する冷戦下にあっては、米国との安全保障条約のもとで平和を享受することができた。
 しかしながら、冷戦が終結し、国家や民族が再び各々の国益や主体性等を主張する国際関係に回帰したといわれる今日、国際社会の主要国に成長した我が国には、その地位に相応しい役割が求められている。
 また、中国の覇権的拡張、当面する北朝鮮の脅威、あるいは域内各国間の領土問題等がいよいよ尖鋭化する二十一世紀のアジアにおいて、我が国が誇り高い国家として生き続け、子孫に引き継いでいくためには、 国力国情に応じた確かな国防体制を確立することが急務である。

 冷戦の終結を境にして、国際政治には大きなパラダイム変化が起った。

 冷戦は、米ソを両巨頭としてイデオロギー及び政治経済体制を異にする二つの国家群が、世界を東西のブロックに分けて軍事的に対峙したもので、永い世界史が曾て経験したことのない極めて「特異な時代」であった。
 この時代は、国家間の様々な紛争要因が東西両陣営の対立の枠の中に封じ込められ、核の恐怖による抑止と東西の軍事バランスが巧みに作用して、比較的安定した平和な時代であった。

 冷戦が終結すると、東西対立下の重石や両陣営の縛りから解き放たれ、各国また各民族がそれぞれの国益や主体性等を主張する従来のオーソドックスな国際関係に回帰し、地域紛争が激化するようになってきた。
 また、冷戦間に製造・蓄積された大量破壊兵器や弾道ミサイルが至る所に拡散し、非国家主体によるテロ・ゲリラ等の不法行動も多発して、世界は不安定で予測困難、脅威不明で制御不能な「いつ、どこで何が起こるか分からない、何が起きてもおかしくない時代」に入ったと指摘されている。

 一方、アジアでは、冷戦時代から続く対立と統一の問題、あるいは各国間の領土問題等、地域紛争に発展するおそれのある国家間の係争が依然として残っており、またテロ・ゲリラの脅威も顕在化している。

 特に中国は、経済発展を背景に一貫した軍事力の強化を図り、資源の獲得や政治的経済的影響力の拡大にひた走っている。特に台湾問題は、この地域全体の平和と安定を脅かしかねない重大な懸念材料である。

 朝鮮半島での半世紀を越えた軍事的対峙、北朝鮮の核・ミサイルの開発及び日本人の拉致等は、我が国にとって直接的脅威である。

 更にアジアには、我が国の北方領土、竹島、尖閣諸島をはじめ、域内各国間に領土問題が存在するとともに、中東から北東アジアにかけて広がる「不安定な弧」の一部として、軍事紛争の起こりやすい地域とされている。

 冷戦中は、米国との同盟の下に、むしろその庇護を受けつつ、我が国は経済に専念するとともに、西側の一員としてソ連の封じ込めに綻びが生じないよう、その一翼を担えば済んだのである。
 しかしながら、冷戦が終わり、戦後の経済発展によって世界の主要国に成長した我が国は、アジア地域の脅威や懸念に直接対処することはもとより、世界的問題に対して、国力や地位に相応しい責任と役割を果たさねばならない立場に立たされている。

 年我が国では、周辺諸国の不法行動や国際テロの脅威等の事態の顕在化に伴い、非常時における国民保護、米軍との共同の必要性等から、漸次法整備が行われている。

 しかし、非常時に国を挙げて国家の防衛に当たる体制は未だ不十分である。また、集団的自衛権の行使、海外で自衛隊が行動する際の国際法規・慣例に則った権限の付与等の問題は、法的裏付けのない状態に放置されたままである。

 これらの問題を一時も早く解決し、国力国情に即した確かな国防体制を確立することが急務となっている。

 このためには、まず憲法の改正が必要であるが、これは単に憲法九条の改正に止まるものではない。
 民主国家日本の主権者である国民一人一人が国を愛し、名誉を重んじ「自らの国は自らの力で守る」強い意志と責任を共有していることが全ての基礎とならねばならない。
 その基礎の上に立って、国防に関する現行憲法の欠落事項、また、我が国が将来にわたって国際社会の中で応分の責任と役割を果たす上で不足し不十分である事項について、新たな憲法で明確に示さなければならない。

 確かに、憲法九条は、現行憲法に内在する全ての問題の縮図であり、憲法問題は第九条に帰結するといっても過言ではない。したがって、第九条は全面的な改定を行い、国家防衛のための自衛権の行使並びに国軍の保持とその任務権限について明確に規定することが必要である。

 しかしながらその一方で、戦後の憲法論議は第九条の問題に余りにも縛られ過ぎ、広く国防あるいは軍事の問題に目を向けてこなかったことも、事実である。

 我が国の軍事占領下に作られた現行憲法は、対日非武装化・弱体化を究極の目的とする占領政策の一環であったことから、「占領管理基本法」的性格の憲法と言われている。

 また、憲法制定当時の我が国は、自国の軍隊を悉く解体され、国防を占領軍に委ねていたこともあって、現行憲法には有事等を想定した国家非常事態に係わる事項及び国家の属性である国防あるいは軍事に係わる事項が全面的に欠落している。

 最も基本的なことは、国家と国民に関わる事項である。

 国家と国民は、全体と個の関係にあって、相互一体的な運命共同体である。
 すなわち、国家は国民を保護するが、一旦国家が生存の危機に直面したときは、国民は自己の生命財産を犠牲にしてでも国家を守る。この相互関係の原則がうやむやで、 その生存と安全をひたすら軍隊に依存する国家では、当面する脅威に国を挙げて立ち向かうことはできず、その将来を危うくするのである。
 いうなれば、民主国家日本の主権者である国民一人一人が国を愛し、名誉を重んじ「自らの国は自らの力で守る」強い意志と責任を共有していることが国家存続の全ての基礎である。
 このような国民の当事者意識と行動に立脚してはじめて、国防の中核を担う軍隊は、文字通り「国民の国民による国民のための軍隊」として厳然と存在し、果敢に任務を遂行することができるのである。

 更に、先に述べたとおり、我が国には有事等を想定した国家非常事態に関する規定がない。

 また、冷戦後のアジア及び国際社会の中で、主要国としてその国力地位に応じた責任や役割を果たす上において、集団的自衛権の問題や外国に派遣される国軍が列国の軍隊と対等に共同行動ができない問題、あるいは軍法・軍事裁判所、軍人の身分・処遇の問題など、我が国の国防体制には不十分かつ不足している事項が多々指摘される。

 したがって、我が国が将来に向かって万全の体制を築くためには、それらの解決策を網羅して、新たな憲法で国家の明確な方針として示すことが必要である。

 この際、国防の骨格をなす実力組織は、「国民の国民による国民のための軍隊」を基本精神として、「自衛(自己防衛)軍」(Self Defense Force)と称するような内向きで自己中心的なものでなく、 我が国の防衛を第一義に、併せて同盟国に対する責任や国際社会における役割を果たせる「国軍」(National Armed Forces)あるいは「国防軍」(National Defense Force)として創設することが肝要である。

 先に述べたとおり、独立国であり、民主主義国家である我が国の国防の責任は国民一人一人にあり、その国民の総意、参画並びに支えに基づいて第一線に立つ軍隊が存在する、というのが国家としての理想の姿である。

 既に発表されている一部の改憲案に見られるように、例えば、憲法九条二項のみを改正し、自衛隊を自衛軍に改称してその保持を是認するような、単に第九条の矛盾点を部分的に修正しただけでは、問題の本質的な解決にはならない。
 この問題の本質は、軍隊の保持を否定されてきた国が、自らの意志によって、新たな軍隊を創設する決意を示すということに他ならないのである。

 「自衛軍」の訳語( Self Defense Force )を素直に解釈すると、「正当防衛軍」あるいは「自己護衛軍」となるのであろうが、国際的には全く認知されない、また歴史的にも存在しない概念である。
 このような言葉の使用は、我が国の政策が引き続き独善的であるとして諸外国から軽蔑されるばかりでなく、その呼称から受けるイメージと保有する軍事力の実体との大きな較差から、我が国の意図に疑念を抱かせ、 ひいては、将来への猜疑心まで惹起しかねない。

 自衛軍という言葉が与える「一国平和主義」的な内向きで、自己中心的・利己的な軍隊を持つことは、素より我が国が真に目指す所ではないし、大方の国民の本意にも反するものである。
 われわれが考える軍隊は、日本国の軍隊であり、外敵の侵略に対して我が国を防衛する軍隊である。
 そして、唯一我が国を代表して同盟国との約束を果たし、国際社会の責任を果たす軍隊である。それが故に、新たに創設する軍隊は、自衛軍では名が体を表さず、日本国軍 ( National Armed Forces)あるいは日本国防軍 ( National Defense Force )と称するのが、最も相応しいのである。

 現行憲法の平和主義は、人類が求め続けなければならない基本理念ではあるが、それを唱えるだけでは国益がぶつかり合う国際社会で生き残って行くことはできない。

 戦後の世界を見ると、世界の人々の平和への願いや多くの人の平和構築の努力にもかかわらず、地球上から争いは無くならない。真に平和を願う人々の行動は、現に発生している争いを終息させ、あるいは現状の更なる悪化を抑制して、平穏な暮らしを持続させる上では一定の役割を果たしている。しかし、争いの原因を根本から絶ちきり、予想しうる将来に争いの無い理想的な世界が実現出来ると考えるのは極めて非現実的と言わざるを得ない。

 国際連合は、戦勝国が引き続き戦後の世界秩序を支配するための機関として創設したものであり、戦後頭を擡げてきた東西陣営間の対立を解決する力とは成り得なかった。

 冷戦後においても、平和構築に向けての各種の動きの活発化は見られるが、各国の利害が交錯する国際社会の本質を変えることには成功していない。
 戦後六十年を経て、未だに「国連憲章の敵国条項(第百七条、五十三条)」が削除されず、第二次世界大戦の戦勝五カ国が拒否権を持つ安保理の改革提案も受け入れられない状況にあるのが、今日の国際社会である。

 我々は、国際社会のこの現実を冷静かつ理性的に見極め、国家存立のために何をなすべきかを、突き詰めて考えなければならない。

 すなわち、今こそ日本国民としての主体性と責任において、自らが描く「国家観」に基づいて憲法を制定し、他国によって押しつけられた戦後体制を清算するとともに、二十一世紀以降の未来に向かって、 我が国が自信と勇気を持ち、国際社会の中で「品格ある活力に満ちた誇り高い国家」として再生飛躍するため、新たな国家・国防体制の確立を急がなければならない時である。

 日本郷友連盟は、以上のような認識のもと、平成十七年の一年間をかけて、現行憲法の致命的欠陥である国防の問題を中心に憲法のあり方について研究を重ね、一応の成果を得た。その研究成果を踏まえて、このたびの提言を行うものである。

 以下、提言の各項目について、その主旨とするところを述べる。

V-U 【七つの提言】の補足説明

提言1 愛国心並びに国防の重要性について

 国家は、何のために存在するのか。北朝鮮による日本人拉致の現実や中国・韓国との領土問題等を突き付けられるにつけ、国家の存在とその役割という基本的事柄が国民共通の問題として浮き彫りになり、改めて国民に問いかける切っ掛けとなった。

 国家とは、単なる抽象的な個人の集合体あるいは法的な組織にとどまらず、歴史、伝統文化、政治制度、風俗習慣、精神倫理などを共有する有機的共同体である。そして、国家と国民は、全体と個の関係にあって、その生存と安全並びに繁栄と幸福を相互一体的に保障し合う共存共栄の運命共同体である。

 しかるに、我が国の現行憲法、特にその前文は、社会契約説的な思想に基づいて記述されるとともに、我が国本来の国家論が書かれていないため、戦後の憲法論は、国家をひたすら個人主義的国家観から説明することが多く、 反国家的な風潮を蔓延させてしまった。
 また、憲法前文の「平和主義」と第九条の「戦争の放棄、戦力及び交戦権の否認」によって、独立国が当然保有する主権としての自衛権までが極限され、 「国防なき憲法」ともいうべき致命的欠陥をもった憲法として制定運用されてきた。

 この結果、日本国民は、「自分の国、そして自分の身は自分で守る」の自己保存の原理あるいは自助の精神までも放棄し、国を愛することも、国を守る当事者としての責任も一切忘れてしまったかのような、惨憺たる情況に陥っている。
 このようにして、戦後六十年余、我が国の根本的再生を求められている今日、愛国心と国防の重要性を一から問い直す必要性が、国家の死活的課題となっているのである。

 我が国は、単一民族、同一言語の下、豊饒の海に囲まれ緑と四季豊かなこの「美しい日本」において、二千有余年の悠久の歴史を積み重ね、独自の伝統文化を誇り、調和を重んじ、一致協力して幾多の国難を乗り越え、 万世一系の天皇を中心とした国民国家として平和と繁栄を享受しつつ発展してきた。
 われわれ日本人が、この国を敬愛するのは極めて自然の感情であり、この国を守るのは、至極当然の責務である。そして、我が国を「品格ある活力に満ちた誇り高い国家」として子孫へ引き継いで行くのも又、当然の使命である。

 このように、過去、現在そして未来という歴史の連続の中で、我が国の揺るぎない礎とその安寧について思うとき、健全な「愛国心」と「国を守る気概=国防」以上に大事なものはあり得ない。

 すなわち、民主国家日本の主権者である国民一人一人が国を愛し、名誉を重んじ「自らの国は自らの力で守る」強い意志と責任を共有していることが国家存続の全ての基礎であり、その基礎があってはじめて、 輝く日本の未来を創造することができるのである。そして、戦後体制を清算し、国家再生を果たすためにも、憲法改正に当っては、先ずは、愛国心並びに国防の重要性を憲法前文に明記することから始めなければならない。

提言2 国民の国防義務について

 国防の中核である軍隊の保持を禁ぜられ、交戦権をも否認された戦後の我が国憲法から国民の「国防の義務」が欠落したのは当然といえば当然である。しかしこの結果、国防に対する国民の関心は低迷を続け、今やその責務さえも忘れ、放棄されてしまったかのようである。

 戦後六十年余を経た今日、現行憲法体制を払拭して、我が国が自らの手で自らの行く末を決める時である。
 そのためには、国家とはなにか、国民とは何か、国を守るとはどういうことかなど「国のあり方」について原点に戻って再検討を加えなければならない。
 その中でも、国民が我が国の国防に如何に関わりがあり、如何に関わって行かねばならないかは極めて重大な事柄である。

 いかなる国家といえども、その究極の役割は「生存と安全の確保」、すなわち国防であり、国民主権の民主主義国家においては、国防はすべての国民にとっての共通の義務である。
 また、国防あるいは国の安全保障の中核は軍事力であり、国民国家においては、軍隊は「国民の国民による国民のための軍隊」であって、すべての国民の参画によって整備維持運用されるのが基本原則といえよう。
 更に、国家の有事等の非常事態においては、国民全体がその当事者であり、また被害者であって、誰しも傍観者の立場に止まることはできないのである。

 結局、戦後我が国の国防・防衛上の根源的かつ最大の問題は、国民にその当事者意識がないことに帰結するのではないか。
 確かに、憲法九条の改正は避けられない。しかしその前に、すべての国民には「自分の国、そして自分の身は自分で守る」の精神の回復とその実践が不可欠で、それを「国防の義務」として憲法に明示することが第一であり、それは又、 今後の「国のあり方」を指し示す上で、喫緊の課題と言える。

 この際、徴兵制を採らないことを憲法に盛り込もうとする動きや、義務より弱い訓示的規定として「責務」という概念を導入し、「国防の責務」とする考えがあるように新聞等で報じられているが、 国民の「国防の義務」の精神を根底から覆すものであり、本末転倒と言わざるを得ない。

 特に、「徴兵制」か「志願兵制」かの選択などは、悠久の国の歴史を考えた場合、情勢の変化に応じて時の政策判断が可能なように常に留保しておくのが賢明な態度であることを指摘しておきたい。

提言3 国家非常事態と指揮権限について

国家非常事態とは、国民の生存の保障、国家の独立の保持並びに国内の治安と秩序の維持という国家の機能発揮を危くする事態であり、如何なる事態においてもこれらの危機から国家・国民を守ることは国家の責務である。
 しかしながら、現行憲法には国家非常事態に関する規定はなく、諸外国の憲法において、非常事態の認定権限、最高指揮権限者とその権限、国民の基本権の一部制限などが規定されていることとは大きな隔たりがある。

 国家非常事態の規定がないということは、当該事態に際して超実定法的に権限を行使することになり、また明治憲法下における軍部独走に見られるような恣意的な運用の危険が付きまとう。
更に、時の為政者により最善の努力がなされたとしても適時的確な対応は望むべくもなく、国民に甚大な被害をもたらし兼ねない恐れがあるのである。

 したがって、憲法を含む法体系の中で、国家非常事態に国としてどのように対応し、その生存と安全を確保するかが明らかにされなければならない。

 しかし、国家の基本法である憲法において多様な国家非常事態の全てにわたって細部規定することは、法の性格上なじまず、国家の死活的かつ最大の問題である武力攻撃事態を主体に規定することが適切である。
 その他の非常事態については、国軍の役割として、治安の維持、そのための警察力の支援、災害時の関係機関の支援などの任務規定、更にはその他の非常事態についての主対処機関の指定と関係組織がどのように拘わるかなどの基本的な規定に 止めることになろう。

 武力攻撃事態については、まず事態の定義を明らかにし、ついで誰がその事態を認定し、宣言・公布するかなどの規定が必要である。
 計画的、組織的な「我が国の領域に対する武力攻撃」の有無を基本として定義し、「その恐れのある場合」を含む形で簡潔に規定することである。
 併せて、軍事に対する政治優先(シビリアン・コントロール)の原則を確立するために、国会による事態の認定、国軍の最高指揮官を文民であり行政府の最高責任者である内閣総理大臣とすることなどが明示されなければならない。

 国家非常事態には国家の主権保持や多くの国民の生命・財産が危機に曝される。また、非常事態は「どこで、何が起こるか分からない」のが常であり、平時の想定外の事態が生起することを歴史は示している。
 この場合、国家権力の執行においては、単なる法律の執行を越える権限を内閣に付与し、効果的な対処を可能にすることが必要である。
 また、明治憲法下の国家体制の反省も踏まえ、一途の方針の下、非常事態に迅速柔軟かつ的確に対処するため、内閣総理大臣を最高指揮権限者としてあらゆる権限を集中し、一元的にリーダーシップを発揮できる体制が確立されなければならない。
 更に、国家戦略の決断という重責を一身に担う内閣総理大臣を補佐し助言できる機関が設置されなければならない。その機関には軍事専門的助言ができる軍人が含まれ、軍事的適合性が確保される必要がある。

 国の独立が維持されていなければ国民の基本権は保証されないのであり、治安が維持されていなければ人命の保証は危くなり、災害の拡大は多くの人々の生命・財産を奪うことになる。
 したがって、まずは非常事態を迅速柔軟かつ的確にコントロールすることが全てに優先されなければならない。このため、国民が平和時に享受する諸権利を一時的に棚上げし、 国を挙げて国難に対処してこれを乗りきる有事体制を速やかに構築することが肝要である。
 すなわち、対処に必要な限度内で、国民主権の一時的委任、基本的人権の部分的制約などの例外規定を設け、事態が収束した暁には諸権利を回復し平時体制に戻るような制度が必要である。

 このためにも法体系の頂点に位置する憲法の改正が不可欠であり、戦後六十年間の国家的教訓を踏まえて、国家非常事態なかんずく武力攻撃事態に如何に対処するかを憲法に明記することが必要なのである。

 そして国軍という貴重な国家資源を自国の防衛のみに極小化することなく、冷戦崩壊後のグローバル化時代において、諸外国からの期待に答えるとともに世界平和構築に向け大国としての日本の地位に相応しい貢献を果たさなければならない。

提言4・提言5 憲法九条と自衛権の確立並びに国軍創設の必要性について

 制定過程から見た我が国の現行憲法は、「占領管理基本法」的性格のものであり、その象徴が、憲法第九条である。
 この第九条は、マッカーサー三原則(マッカーサー・ノート)の第二項「国家の主権的権利としての戦争を放棄する」に基づいて起草されたため、独立国が当然保有する主権としての自衛権そのものを意図的に極限する、いわゆる「主権制限条項」となっている点に改めて強い関心を払わねばならない。

 憲法九条は、起草過程において、第二項の冒頭に「前項の目的を達成するため」という文言を追加するいわゆる芦田修正がなされ、また「交戦権」という不確定な用語の使用や英文からの翻訳などの諸要因が不透明な改正過程と絡み合って、 制定当初から複雑な問題を提起してきた。
 殊に、「自衛権及び自衛権発動のための武力行使」は認められるとする政府見解が、第九条の文言からはストレートに読み取れないばかりか、警察予備隊から保安隊、次いで自衛隊へと発展し、防衛力の整備強化が図られるにつれて条文と 現実との間には次第に大きなズレが生じ、五十五年体制下の保革による同条を巡る神学論争や戦後の平和運動のうねりの中で、多くの国民にとっては極めて難解で厄介な問題となって、世論を二分する国家的争点に発展してきたのである。
 そして、戦後の我が国において政治的・社会的対立を惹起し、防衛問題、特に自衛権の行使並びに自衛隊の存在と正統性に関する国民的合意の形成を妨害するとともに、長年にわたって我が国の防衛問題の健全な発展を阻害してきた。

 戦後六十年余りが経過し、「交戦権」を否定しながら「自衛権」の行使を認め、「戦力」を否定しつつ「自衛力」の保持を認めるという手法や「国の大事」である国防問題を憲法の解釈によって改めようとするやり方(解釈改憲) で何とか乗り切ろうとする政府の政策遂行は既に限界に達している。
 中でも、集団的自衛権は国際法上保有するが憲法上行使できないとの見解は全くの詭弁であり、法理的にも、政策的にも一貫性がない。何よりも、我が国唯一の同盟国アメリカとの同盟関係を危うくする恐れがあり、極めて深刻である。
  一方、冷戦の終結から十数年を経た今日、世界は勿論のこと、我が国の戦略環境・安全保障環境は著しく変化した。
 グローバル化や情報化が急激に進展する中、「通商国家」、「国際国家」である日本の進路を展望するとき、世界の平和と安定がなければ、我が国の平和と安全を確保できないことは誰の目にも明らかである。

 このためには、国際平和協力活動を国家の主要事業としてより主体的かつ積極的に取りくみ、米国との同盟の下で戦後経済成長を遂げ、国際社会の主要国に成長した我が国の国力・地位に相応しい責任と役割を果たして行かなければならない。

 近年、自衛隊の海外派遣が盛んに行われるようになってきた。
 しかしながら、武器使用の制限、非戦闘地域に限られた活動、集団的自衛権の問題等があり、列国の軍隊に伍した活動ができているとはとても言い難く、この際、しっかりとした法的根拠と軍隊としての活動の権限および 基盤を付与することが必要である。

 これらの問題を解決するには、何としても、憲法九条の改正が必要である。その改正に当たっては、長年にわたって国家的争点となってきた「自衛権の行使」を巡る論争に決着をつけることであり、また自衛隊の合憲性に対する国民の疑義と、あくまで「自衛隊は軍隊ではない」といわざるを得ない極めて異常な状態を解消するため、「国軍の保持」とその任務権限(交戦権を含む)を明示することである。

 この際、併せて集団的自衛権の行使を認めなければならない。また、国際協力活動を国軍の本来任務に位置づけるとともに、派遣される国軍が列国の軍隊と対等に活動できるよう、国際法規・慣例に基づく軍隊としての権限を付与することが是非とも必要である。

 以上のように、単に憲法九条二項を改正し、自衛隊を自衛軍に改称してその保持を是認しただけでは、問題の本質的な解決にはならない。
 現行憲法下において、長年にわたり疎かにされてきた国防あるいは軍事に係わる問題を、我々の「国家論」に基づいて全面的に再検討するとともに、長年国民が避けて通ってきた国家の主権の問題を改めて問い直し、 自らの手によって正常化することが、戦後体制の矛盾によって翻弄されてきた現世代のなすべき歴史的課題といえよう。
 そして、憲法改正を機に、国家および国防の問題を自らのものとしてすべての国民が一から考えてみることが、何よりも大事なことなのである。

提言6 軍法制度の保持並びに軍事裁判所の設置について

 国の防衛のために自らの生命を賭して行動する軍人には、一般の国民とは異なった厳しい軍律が要求される。
 そして、その軍律の下、任務を遂行する過程で起こり得る自ら、あるいは相対する人物、更には行動地域所在の第三者等に生ずる生命、財産への侵害をどのように裁くのかは、国家における軍隊の在り方を決める上で、極めて重大な問題である。

 戦後の我が国では、自衛官も一般国民同様、全て一般刑法により裁かれることになっているが、このような体制は、世界の主要国ではありえないことである。

 これも、交戦権を否認し、軍隊の不保持を憲法で明言した結果であり、軍隊を持たない国に、軍法制度・軍事裁判所は必要ないとの論理的帰結なのであろう。

 また、膨大な数の犠牲を出した大東亜戦争の悪夢を繰り返さないという感情から、戦後の日本人の一部に、軍規、軍律、軍法といった言葉への強い抵抗感が生じたであろうことに因るのかもしれない。

 しかしながら、今、戦後のある種の呪縛を解いて自らの国を自ら守る気概を取り戻し、名実ともに国の軍隊といえる組織を創り機能させるためには、軍法、軍事裁判という言葉を避けて通ることはできない。

 自衛隊は、警察予備隊として誕生してから今日までの半世紀の間、現行憲法その他の国内法、あるいは政治的、外交的制約の中でいわゆる「奇形の軍隊」としてその道を歩んできた。
 中でも、国外での国際平和協力活動や国内外での災害派遣行動中に生起する各種の事態が人の生命・財産に及んだ場合、指揮官の命令に基づき、身を賭して任務に就いた自衛官が、 その結果を一般刑法で裁かれ、個人としての責任のみが問われこととなるなどは、まさに自衛隊が軍隊ではないからとしか言いようがない。
 また、逆に、命令に背いて職務を怠った者が、軽い処罰で済むのが、軍隊でない自衛隊の姿でもある。

 そもそも軍隊は国家における法秩序の番人として、自らを自律的に維持することが要求される。
 また、軍隊には移動性があり、特に海外派遣や長期の艦隊勤務など自国の司法権が及ばない地域で行動することがある。
 このように、軍人にかかわる刑法上の審判を、一般国民を対象とした一般刑法や国内の司法裁判所に委ねることには本来的に無理があるのである。

 憲法を改正し国軍を持つからには、軍法制度及び軍事裁判所の設置について明確にしなければならない。
 新憲法においては、軍法の制定を確実に担保するとともに、特別裁判所としての軍事裁判所の設置について明示することが必要である。

提言7 軍人の身分と権利義務について

 軍隊は、国家の属性であり、世界のいずれの国においても、軍隊を必須の国家組織としてその存在を一から疑うことはないであろう。
 しかしながら、我が国の現行憲法は、第九条において「陸海空軍その他の戦力」の保持を禁じており、その制定段階には、軍隊および軍人の存在を全く予定していなかったといっても差し支えない。

 このため、憲法制定後に警察予備隊、次いで保安隊を前身として創設された自衛隊に対して、我が国は「軍隊も軍人もいない」とする憲法の建前を貫かざるを得ない立場に追い込まれてきた。
 すなわち、国内的には「自衛隊は軍隊ではない」とされた。また、その構成員である自衛官は軍人とは呼ばれず、「特別職国家公務員」の身分の中に無理やり押し込められ、論理矛盾をきたさないよう帳尻を合わされてきたのである。

 しかしながら、国防の使命を果たす国家唯一の武力組織(自衛隊)は本質的に軍隊であり、その地位にある者(自衛官)は間違いなく軍人でなければならない。

 軍人は、「国家の生存と安全を確保するため、公然かつ排他的に武器の使用が認められた、戦うことを本分とする武人」であり、明らかに一般の国民とも、また公務員とも異なる「第三の身分」というべき特別な身分である。
 また、それが故に、国内的にもまた国際的にも特別な権利を付与され、様々な義務を負わされる立場にあるのである。

 明治憲法では、臣民、文官および武官(軍人)の身分に区分し、各々の権利義務について所要の規定がなされていた。
 また、列国においても、同様に規定している国が多い。
 しかしながら、現行憲法には、国民および公務員に関する規定はあるが、軍人(自衛官)に関する規定がない。
 我が国では軍隊および軍人の存在は依然として否認されたままになっているのである。

 したがって、憲法改正において国軍を創設する暁には、その地位にあり、その構成員である者は当然「軍人」として再確認し、軍人の身分を確立してその権利義務を明確に規定すべきである。
 そして、その職責に相応しい栄典等の特別な処遇を付与して国家に対する献身に報いることが、我が国の国防体制を再建充実する上には必要不可欠と言えよう。

以上